2019年12月20日

改憲への想い残し、 中曽根康弘元総理死去、 原子力基本法の生みの親、大胆な民営化で戦後政治をリード

1912 1.内閣IMG_5172.JPG1912 2.民営化IMG_5178.JPG1912 3.胡耀邦IMG_5174.JPG1912 レーガン日の出IMG_5177.JPG          
写真、中曽根内閣、民営化推進、胡耀邦と、レーガンと日の出山荘で、いずれもNHKニュース7, 11/30/19
 戦後の日本政治をリードした中曽根康弘元総理が死去した(11/29日)。101歳だった。
 長期政権の先駆け
 中曽根氏は、当初は、経済中心の自民党の中では小派閥の傍流であった。「三角大福中」(三木、田中、大平、福田、中曽根)といわれ、総理候補として最後列に位置した。しかし、自主憲法制定を早くから唱えて青年将校と言われ、総務会長(71年)、幹事長(77年)と階段を上り、首相の座を射止めた(82年)。中曽根政権は冷戦末期の82年から87年の5年間、当時としては長期政権を築いた。特に最後の一年は「死んだふり解散」で衆参同日選挙を敢行、衆院304議席の多数を得たことから(86年)、総裁任期を延長した。その手法は現在の安倍内閣に引き注がれている。
 国鉄、電電公社、専売公社、民営化実現
 政治改革の面では、米、英の「小さな政府」にならって、当時巨額の債務を抱えながらストライキを頻発していた国鉄の民営化など、大胆な「行政改革」に踏み切った(87年)。その結果国鉄はJRと名を変え6地域に分割され。27万7000人のうち、職員7万人余りが国鉄清算事業団に送り込まれ、採用されなかった。続いて、中曽根内閣の手で電電公社(NTT)、専売公社(日本たばこJT)も民営化された。
 単なる行政改革を越えた民営化であり、戦後経済の在り方を根本からかえるものであった。
 日本は不沈空母、対米従属への道開く
 諸外国との関係では、中曽根首相は就任後真っ先に韓国を訪問、当時学生に対し強権を振るっていた全斗煥(チョン・ドファン)大統領との間で、日韓経済交流の糸口を開くことに成功した。胡耀邦(フー・ヤオパン)との親密な関係を結んだこともしられている。
またアメリカとの関係では、冷戦構造の中アメリカとの軍事協力を強化する方向を打ち出し訪米してレーガン大統領との親交深めた。両者はお互いに「ロン・ヤス」と呼び合ったことで知られる。訪米中米「ワシントンポスト紙」に対して、「日本列島を(対ソ連の)不沈空母にしよう」と語ったことは、国内はもとより、世界に大きく報道された。
 「憲法改正」を執念に
 中曽根首相は在任中1985年8月、靖国神社に首相として公式参拝した。しかし中国から激しい判を浴び、友好関係にあった胡耀邦主席の中国共産党内の地位を脅かすとともに、近隣諸国の不信を招く恐れがあるとして、その後の参拝は取りやめた。
 念願だった「憲法改正」については首相就任直後の1983年1月「憲法改正を日程にのせない」と発言した。先輩である池田勇人元首相が死去する前に憲法改正の議論は控えると語ったことが影響した、と後に中曽根氏は語っている。しかし、退任後は改定草案の前文をさくていするなど、晩年まで改憲意欲を持ち続けたことで知られる。
 原発導入の先駆け
 日本の原子力発電は原子力基本法により1955年に大綱が決められた。前年、中曽根康弘、稲葉修、川崎修二(いずれも改進党所属)らの原子力研究予算が提出された。自由民主党と社会党の共同提案、予算額は2億3500万円、満場一致の可決だった。(予算額は核分裂を起こすウラン235に因んだ)。中曽根氏が提案に立ち、「全国民協力のもとにこの政策を一致して進めよう」、と訴えた。そして、正力松太郎とともに原発の主要推進者の一人として、1959年には科学技術庁長官に就任した。
アメリカのアイゼンハワー大統領が推進した「アトム・フォー・ピース」の政策を見習ったものと思われる。1988年の東海発電事故、2011年の福島原発事故に対し、中曽根氏は再生エネルギーの活用を考えていると伝えられるが、原発を日本に持ち込んだ人物としての責任は免れないだろう。隅井孝雄

 機関紙協会京滋、宣伝と組織 20年1月号


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