2008年11月13日

筑紫哲也が亡くなった。

隅井孝雄のメディアウオッチ No. 0808(通算168)
2008.11.13 


 筑紫哲也が亡くなった。

私より年が一つ上だが、学年は一緒。同じ世代であり同じジャーナリストとして長年顔見知りであった。

彼とのダイレクトな接点は三回ある。

1982年ポーランドで連帯運動が起き、戒厳令であわや封じ込まれそうになった時、歌手の横井久美子さんがポーランド歌を特集するコンサートを開いた。その構成演出をすることになった私はゲストに筑紫さんを頼んだ。東欧社会主義が崩壊に向かう最初の動きだったが、私も筑紫さんと同じように、それが歴史的なものであることを予感していたからだ。

私は1986年からNTV(日本テレビ)インターナショナルの社長としてニューヨークで仕事をしていた。1997年筑紫さんは朝日ジャーナルの編集長を降りて、朝日新聞ニューヨーク支局に来たのが二度目の出会いだ。私の娘たちはニューヨークにある国連インターナショナルスクールUNISに行っていたので私は彼女たちの体験を彼に語った。「UNISには歴史の教科書はない。国によって歴史上の出来事の解釈がすべて違う。世界中の生徒がいる教室では一つの歴史観を教えることが不可能だ。歴史の時間は生徒がディスカッションしている」。筑紫さんは教室の多様性にいたく感心したようだった。

ある日学校から帰った娘たちは「筑紫さんの息子が入ってきた、拓哉君というんだ」といった。私の言ったことが筑紫さんに何らかの影響を与えたのかもしれないと思った。

1989年の秋筑紫さんは忽然とニューヨークから姿を消した。そして気がついたらTBSで新しいニュース番組のキャスターになり、新しい道を歩み始めた。彼を口説いてTBSに迎え入れたのは、私の長年の友人で当時TBS報道局次長だった諌山修氏だったことを後から知った。

1999年日本に帰った私は京都学園大学の教授となった。そして2001年秋講演会を企画し、筑紫さんに出演を依頼した。講演の日の直前9.11の同時テロが起きた。彼は激変する世界を熱く語った。

 

彼が肺がんでしばらく休むと表明するテレビを見ながら私はアメリカABCのニュースアンカー、ピーター・ジェニングスのことを改めて思った。

ピーター・ジェニングスはアメリカのネットワークニュースの中で最も信頼感のある人物だった。9.11の報道では、出来るだけ客観的に事態を伝えることを心掛け、危機に対するブッシュ政権の資質を問い続けた。そして中東、アラブ全体を敵と見ることに警告を発し続けていた。若いころ中東特派員をしていたため、他のアンカーたちと比べて抜群に情報を持っていた。しかしそのために右派からは「あいつをやめさせろ」という集中砲火を浴びた。視聴率は下がったが、彼は孤塁を守り続けた。

その彼が20054月放送の中で肺がんであることを自ら語り、治療して戻ってくるまで番組を休むと表明した。しかし彼はその約束を果たせず2ヶ月後帰らぬ人となった。

筑紫さんは何度もテレビに戻ってきた。一時は頭髪が元に戻った時期もあったが、16ヶ月後帰ぬ人となった。

ガンだと公表する1年ほど前、東京で内輪の「筑紫哲也を励ます会」が開かれ、私も出席した。その席上、民主主義や言論の自由を標榜するメディアが数少なくなり、自分への理不尽な中傷攻撃が活発になっていることに危機感を持っていると語った。だから私はそうした風潮への抵抗として踏みとどまり続ける、と言っていた。放射線治療で抜け落ちた頭髪をさらさぬよう、帽子を被った筑紫さんの姿を時折画面で見るにつけ、私は彼のジャーナリズムに対する執念のようなものを感じた。

皮肉なことに2008年の秋の編成から、プライムタイムに数多くの報道、ドキュメンタリー枠が生まれた。そしてアメリカの政治もオバマ大統領の誕生で歴史的な変化をとじた。

筑紫さんが発言する舞台が大きく広がりつつあるのに、いったい何ということなのか。ワシントンでニクソンのウォーターゲート事件を取材した筑紫さんは新しいアメリカの変化、世界の変化にどう反応したのであろうか。

「まあこんなところです」と彼は言っているかもしれない。

 

 

posted by media watcher at 18:09| Comment(0) | 隅井孝雄のメディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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