2019年12月29日

コンサート三昧の年の瀬、野田淳子、新井英一、文太郎(シャンソン)

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 今年はコンサート三昧の年の瀬だった。
 12/22日、野田淳子、「ロームシアター」、感動した曲、金子みすゞの詩に野田さんが曲をつけた「紙の星」と[You Raise Me Up
 コンサート後、仁王門通りにあるビストロ「L'est」で会食、和服通す杉村さん(経糸の会)や一眼レフでコンサートを撮影した三浦さんらとテーブルを囲んだ。
 12/20 は新井英一、古くからのライブハウス、「拾得」(じっとく)、感動した曲、「朝日の当たる家」。
 12/24日はシャンソン歌手、文太郎、「ホテル日航プリンセス」。感動した曲、イラク戦争時にさだまさしが作った曲「遥かなるクリスマス」。
 年の瀬をよい歌と美味しいディナーで締めくくった。
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2019年12月20日

改憲への想い残し、 中曽根康弘元総理死去、 原子力基本法の生みの親、大胆な民営化で戦後政治をリード

1912 1.内閣IMG_5172.JPG1912 2.民営化IMG_5178.JPG1912 3.胡耀邦IMG_5174.JPG1912 レーガン日の出IMG_5177.JPG          
写真、中曽根内閣、民営化推進、胡耀邦と、レーガンと日の出山荘で、いずれもNHKニュース7, 11/30/19
 戦後の日本政治をリードした中曽根康弘元総理が死去した(11/29日)。101歳だった。
 長期政権の先駆け
 中曽根氏は、当初は、経済中心の自民党の中では小派閥の傍流であった。「三角大福中」(三木、田中、大平、福田、中曽根)といわれ、総理候補として最後列に位置した。しかし、自主憲法制定を早くから唱えて青年将校と言われ、総務会長(71年)、幹事長(77年)と階段を上り、首相の座を射止めた(82年)。中曽根政権は冷戦末期の82年から87年の5年間、当時としては長期政権を築いた。特に最後の一年は「死んだふり解散」で衆参同日選挙を敢行、衆院304議席の多数を得たことから(86年)、総裁任期を延長した。その手法は現在の安倍内閣に引き注がれている。
 国鉄、電電公社、専売公社、民営化実現
 政治改革の面では、米、英の「小さな政府」にならって、当時巨額の債務を抱えながらストライキを頻発していた国鉄の民営化など、大胆な「行政改革」に踏み切った(87年)。その結果国鉄はJRと名を変え6地域に分割され。27万7000人のうち、職員7万人余りが国鉄清算事業団に送り込まれ、採用されなかった。続いて、中曽根内閣の手で電電公社(NTT)、専売公社(日本たばこJT)も民営化された。
 単なる行政改革を越えた民営化であり、戦後経済の在り方を根本からかえるものであった。
 日本は不沈空母、対米従属への道開く
 諸外国との関係では、中曽根首相は就任後真っ先に韓国を訪問、当時学生に対し強権を振るっていた全斗煥(チョン・ドファン)大統領との間で、日韓経済交流の糸口を開くことに成功した。胡耀邦(フー・ヤオパン)との親密な関係を結んだこともしられている。
またアメリカとの関係では、冷戦構造の中アメリカとの軍事協力を強化する方向を打ち出し訪米してレーガン大統領との親交深めた。両者はお互いに「ロン・ヤス」と呼び合ったことで知られる。訪米中米「ワシントンポスト紙」に対して、「日本列島を(対ソ連の)不沈空母にしよう」と語ったことは、国内はもとより、世界に大きく報道された。
 「憲法改正」を執念に
 中曽根首相は在任中1985年8月、靖国神社に首相として公式参拝した。しかし中国から激しい判を浴び、友好関係にあった胡耀邦主席の中国共産党内の地位を脅かすとともに、近隣諸国の不信を招く恐れがあるとして、その後の参拝は取りやめた。
 念願だった「憲法改正」については首相就任直後の1983年1月「憲法改正を日程にのせない」と発言した。先輩である池田勇人元首相が死去する前に憲法改正の議論は控えると語ったことが影響した、と後に中曽根氏は語っている。しかし、退任後は改定草案の前文をさくていするなど、晩年まで改憲意欲を持ち続けたことで知られる。
 原発導入の先駆け
 日本の原子力発電は原子力基本法により1955年に大綱が決められた。前年、中曽根康弘、稲葉修、川崎修二(いずれも改進党所属)らの原子力研究予算が提出された。自由民主党と社会党の共同提案、予算額は2億3500万円、満場一致の可決だった。(予算額は核分裂を起こすウラン235に因んだ)。中曽根氏が提案に立ち、「全国民協力のもとにこの政策を一致して進めよう」、と訴えた。そして、正力松太郎とともに原発の主要推進者の一人として、1959年には科学技術庁長官に就任した。
アメリカのアイゼンハワー大統領が推進した「アトム・フォー・ピース」の政策を見習ったものと思われる。1988年の東海発電事故、2011年の福島原発事故に対し、中曽根氏は再生エネルギーの活用を考えていると伝えられるが、原発を日本に持ち込んだ人物としての責任は免れないだろう。隅井孝雄

 機関紙協会京滋、宣伝と組織 20年1月号


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2019年12月17日

シャンソン歌手、ジュリエット・グレコ、戦後のパリで「ボヘミアン」(自由な文化創造者)として活躍、ジャン・ポール・サルトル、ジャン・コクトー、ボリス・ヴィアンらと親交

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 コミュニティーラジオの音楽番組、今回の歌はシャンソン歌手ジュリエット・グレコ。LPレコード。第二次大戦後のフランス文化潮流「ボヘミアン」に焦点を当てる。12月11日放送。
 1927年、コルシカ島生まれ。少女時代ドイツ軍の占領下にあったパリで、母親とともにレジスタンス運動に参加、ゲシュタボに捕まり、パリ近郊の強制収容所に入れられるという厳しい時代を過ごした。
 パリ解放後の1945年、歌手としてのデビュー。
 自由を獲得した文化人、文化の新たな多様性を主張する芸術家たちによる戦後文化運動「ボヘミアン」の中でスターとしてもてはやされた。ジャン・ポール・サルトル、ジャン・コクトー、ボリス・ヴィアンらと親交を結んだ。そして彼女の黒く長い髪がなびき、黒ずくめの衣装で歌うスタイルは大戦後に芽生えたボヘミアン運動の象徴的スタイルとなり、シャンソンのミューズ(女神)として大いにもてはやされた。
 ボヘミアンとは本来はボヘミアからフランスにやってきた「ジプシー(ロマ)」をさすが、大戦後のパリでは、「伝統的な暮らし、習慣、思考にとらわれない自由奔放な芸術家肌の若者、新しい時代の先駆けの人々の一群を、ボヘミアンと呼んだ。

今回は初来日を記念し1975年にフォンタナレコードから出されたLPレコード「枯葉」から4曲選んだ。

1. ロマンス、       
言葉が込めるロマンス、春がほほ笑むと 愛の予感がするわ、このパリの街角に
2. 枯葉
誰もが知っているシャンソンの名曲。映画「夜の門」の挿入歌(ジャック・プレヴェール詩、ジョゼフ・コズマ曲)。映画で歌ったのはイブ・モンタンとはやらせたのはジュリエット・グレコ。
3. 街角
私は覚えている、今日となっては消え去った、あの街角を、子供のころ遊んだ、
4. 悲しみよ こんにちは A4
父と二人で暮らしていたのに、父親が再婚して、心穏やかではないセシル、しかし不慮の事故で…、セシルの深い悔恨の気持ちを歌う。映画主題歌
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2019年12月08日

 コミュニティFMの音楽番組、ゲストに歌手の野田淳子さんを招いた。12月22日、ロームシアターで14時からコンサート

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 コミュニティFMの音楽番組、ゲストに歌手の野田淳子さんを招いた。11月27日
 オープニングに「天使のリン」(グラシエ・スサーナのカバー)を聞いた後、詩人、金子みすずの「雪」を聞いた。金子みすゞは20世紀初頭(大正末期から昭和初期)にかけて活躍した詩人。26歳で死去するまでに500点もの抒情性の高い詩を綴った。 
 イギリスの民謡「ダニー・ボーイ」を、ギターの演奏、生歌、しかもエスペラントで聴かせた。
 最後は中島みゆきの「糸」、縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は一か誰かを温めるかもしれない、と歌う。
 彼女は、コンサート「刻々の誕生」ロームシアターサウスで開催する。 
 12月22日13:30開場、14:00開演、ロームシアターサウスホールでコンサートがある。
 前売り、3,500円、当日4,000円
 歌
1. 「天使のリン」、2. 金子みすゞ、「雪」、3.「ダニー・ボーイ」、4. 「糸」
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 放送を市民の手に! 独立行政委員会制度実現を! ~メディアの危機と放送法制改革〜   2019.12.3 隅井孝雄

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 今年の参議院議員選挙(7/21)に先立って、市民連合が4立憲野党1会派(立憲民主、国民民主、社会民主、社会保障国民会議)と統一要求13項目を決めたことは、日本の政治に辟易している私を勇気づけました。中でもその第13項目「国民の知る権利を確保する観点から、報道の自由を徹底するため、放送事業者の監督を総務省から切り離し、独立行政委員会で行う新たな放送制度を構築する」と記された項目には新たな感動すら覚えました。
 私自身が「放送改革試案」なるものを発表、放送行政を政府から切り離すべきだと提案したのは今からほぼ50年前のことです。
私は当時民放テレビ局の日本テレビに在籍するかたわら、民放労連の放送対策担当副委員長、と現在のMIC(マスコミ情報文化労組)の前身である、マスコミ関連労組共闘会議の事務局長を兼任しておりました。その間、1960年代後半から70年代にかけて、報道に関する政府からの直接的な介入、干渉がさまざまあり、その頃新しいしいメディアで勢いのあった放送メディアにも様々な圧力が加わりました。
 田英夫キャスターの退任(1970年)
 一つだけ例を申し上げましょう。TBSでの出来事です。日本最初のニュースキャスターであった田英夫さんが北爆下のハノイを取材、「ハノイ、田英夫の証言」(1967年10月)を制作しました。政府自民党首脳部(福田赳夫、田中角栄、橋本登美三郎、新谷寅三郎ら)は今道潤三社長、島津報道担当常務、橋本報道局長を呼びつけ「反米番組だ。田をハノイに派遣すればあのようの番組が生まれることが分かっていた」と発言して社長を直接叱責しました。さらに、一連のTBS報道番組「日の丸」(1967)、「三里塚報道」( 1968)は「左翼偏向」だと攻撃、社長の退任を迫り、再免許更新しいなこともありうると伝えたのです。ドキュメンタリ制作者たちが相次いで現場から配置転換され、田キャスターの姿はテレビから消えました(1970年退社、田英夫氏が参議院議員となったのは1971年)。
 「放送改革試案」で民主化探る
 その頃、放送法に新たな倫理基準を盛り込むことが企画されていたことから、自分たちの手で民主主義と知る権利を保障するための制度を形作ろうとしたのです(この放送法は廃案となった)。
民放労連では、日本でどうしたら放送を真に報道機関たらしめるか、真剣に議論を重ね、諸外国の放送制度も調べ、1970年「放送改革試案」を作りました。
 その第1.項目が、「民主的な放送制度を確立するために、中央、地方に放送委員会を設け、電波・放送行政を郵政省(当時所管官庁は郵政省でした)から切り離す、委員は公選制とする」です。しかしそれ以外に、2.視聴者国民の発言権保障のために、3. 放送労働者の権利保障のために、4. 放送局に社会的責任を果たさせるためにと続きます。
 切り離すだけでは不十分と考えた私たちは、視聴者、国民の発言権を保障する制度を検討しました。現在のBPO「放送倫理、番組向上機構」それにあたります。さらに労働者、制作者の権利保障として、個々の放送企業内でも職場、職能組織代表の発言の場を設けるとともに、番組編成制作にかかわる首脳陣のリコール権、良心に反する業務の拒否権が必要、などが盛り込まれました。放送メディアの立体的運営を図ったといえるでしょう。
 2019年の現在に至っても、NHK、民放問わず、政府、与党によるキャスターの追放、番組への介入干渉がやまないどころか、懐柔、丸抱えの動きも進んでいます。
 私はもう一度、市民連語、野党連合の力で、日本の放送が政府からの独立した存在を取り戻すことに努力したいと思います。
 「EU報道の自由憲章」、放送の独立性に言及
 政府が放送の監督権限を握っている日本の他、中国、北朝鮮、ロシア、ベトナム、ラオスなどで限定的です。それ以外の国はメディアの独立性を尊重し第三者委員会が免許や管理権限を持っています。個別の国の制度の詳細については省略しますが、EUの報道の自由憲章をご紹介します。
 EU(ヨーロッパ連合)は別紙のような「EU報道憲章」を2009年に決定しました。19ヵ国の新聞、ラジオ、テレビ、雑誌等の編集長48人が討議して決定、10項目あり、その第1項目と第2項目は以下のようなものです。
「報道の自由は民主主義には欠かせない。報道の自由、政治的文化的多様性を守ることは政府の責務である」
「すべてのメディアの独立性は守られる。メディア、ジャーナリストを一切、刑罰、処罰の対象にしない、独立性を妨げる立法は制定してはならない」。
 そのあと、ジャーナリストの権利に関する項目が8項目(全部で10項目)続く。
 この憲章に抵触する事例は私の知る限り、一件のみです。
ポーランドで1915年政権が右派の「法と正義」に変わった時 大統領、アンジェイ・ドゥダ大統領の下「ポーランドテレビ(12チャンネル)、ポーランドラジオ(4局)」の経営首脳の総入れ替えをはかったことがあります。「PTV放送センター」前を埋める大群衆がポーランド国旗とEU旗で取り巻きました。EUはポーランド政府に対し文書で警告を行ったとみられますが、何らかの制裁をしたかどうかは定かではありません。

 NHK、民放はいずれもインターネットとの融合を図り、力を蓄えつつ、新しい時代に入ろうとしています。今こそ放送を政府の監督下から切り離すべきです。

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