2017年08月20日

日本ジャーナリスト会議のJCJ賞贈賞式 朝日「森友」、「加計」スクープが大賞、富山のチューリップテレビも受賞

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8月19日午後日比谷のプレスセンタービルで開かれた。私も代表委員の一人として京都から駆け付け参加した。
大賞は朝日新聞の「森友学園」、「加計学園」問題のスクープと一連の報道に与えられた。
朝日からは取材記者と、編集担当4名が参加、「総理の御意向」と書き込まれた文書のスクープが最大の功績だが、「怪文書だ」とする菅官房長官に直ちに反論材料を提示したことは、内閣支持率の急激な低下の一因となった。文科省担当の藤岡記者(女性)も称賛された。東京新聞の望月記者(女性)は選考時期を過ぎての活動のため受賞にいたらなかったとの説明があった。
朝日のデスクからは、「メディアの任務は真実を明らかにすることに尽きる。政権批判で取材しているのではない」との発言もあった。
ほかの受賞は「日米合同委員会の研究」(吉田敏浩氏)、「高江・辺野古、新基地を問う報道」(沖縄タイムス)、「政務活動費不正のスクープと地方議会改革キャンペーン」(北日本新聞)、「富山市議会における政務活動費の不正を明らかにした調査報道」(チューリップテレビ)であった。弱小テレビ局とみられていた同局の、奮闘ぶりは驚きでもあった。
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2017年08月15日

わたしと戦争

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 私と戦戦争 隅井孝雄
  戦後71年、遠い昔のことになった。戦争を知る同世代の友人たちが、次々いなくなっていく。テレビの初期に活躍、顔見知りでもあった永六輔、大橋巨泉もはかなくなった。私も戦争の一端が心に残る最後の世代かも知れない。
生まれたのは1936年、昭和11年。東京市杉並区の高円寺駅から5-6分、中央線の電車、列車の走る線路にほど近いところで生まれた。父が出版社勤め、母が幼稚園の保母という共働きだった。当時の玄関脇に洋間がある二階建て住宅だった。近くには、棟続き六軒長屋もあった。近くの線路脇の原っぱで近所の子たちと戯れる無邪気な子供だった。
写真説明、1. 廃墟の新宿、三越と伊勢丹が残っている。2.疎開先の岡山県高梁小学校、
3.戦後東京に戻って通った中野区大和小学校、4現在の高円寺駅、私の生家はこの近くだった。

 1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃。大戦果を祝って日の丸の小旗を打ち振る行列に加わった記憶もある。しかしそれが一家の平穏な暮らしを大きく変えた。
 私は1942年(昭和17年)学校に上がったが、小学校ではなくなっていて、国民学校一年生であった。教科書は「すすめ、すすめ、へいたいさんすすめ」だった。 その年4月18日、米軍の爆撃機による東京初空襲があった。いわゆるドーリトル空襲、B25により荒川、小石川、牛込などが被災した。B29爆撃機による東京への本格的な空襲はその2年後1944年(昭和19年)11月以降のことになる。
 しかし私の家族は極めて早い時期に東京から避難することを決めたと思はれる。国民学校2年生になったばかりの私は、姉とともに母に連れられ、母の実家のある岡山県高梁町に移り住んだ。いわゆる「縁故疎開」であった。そこは岡山市から北へ50キロ、中国山脈のただ中にある。時折かなりの高度で北上する米軍機を見かけることがあった以外、直接戦争の被害が及ぶことはなかった。
8月6日、広島に新型爆弾が落ちた、大きな被害が出たときいた。そして8月15日、重大放送があるということで母屋の縁側に置かれたラジオの周りに10数人が集まった。小学4年の私には理解できなかったが、大人たちが戦争は終わったと話していた。
 東京に帰った。高円寺の私の家は空襲激化の中で強制的に取り壊されていたため、東京中野区大和町のある邸宅に間借りすることとなった。父親の知り合いの紹介だったが、家の主は表札だけ残していたものの住んでおらず、4世帯が住んでいた。今から考えれば、それぞれ空襲で家を失った人々であり、今風に考えれば「難民だった」といえよう。台所やトイレは共同して使った。その家の道一つ向かいに風呂屋さんがあった。 
 東京に戻った私は小学校4年生だった。学校では教科書の軍国主義的ページを習字の紙で覆うことから始まった。数行消せばいい部分は筆で墨塗りした。5年生になったとき配られた教科書はB版全紙大の一枚の紙だった。折りたたんで折り目の部分にはさみを入れると、一冊の本になった。それが教科書だった。6年生になったとき「新しい憲法の話」が配られた。先生の説明を聞いた後、作文を書いた。戦争をしないということへの感動の気持ちを綴った。それが中野区のコンクールで優秀賞を得た。今でも憲法9条を維持すべきだと考える私の原点だ。
 この記事は8月15日に放送されたラジオ番組(FM79.7京都ラジオカフェ)の終戦特集の一部に加筆した。
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2017年08月13日

映画評「ヒットラーへの285枚の葉書」

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 2017.8.1
 ナチスに抵抗する映画はこれまでたくさん見てきたが、ドイツ国内でヒットラーに抗議の行動を起こした人物を描いた映画は初めてだった。
 映画は冒頭でパリ陥落を描くがそれ以外はすべてベルリン市内中心部ヤブロンスキー通り55番のアパートが舞台になっている。軍需工場の職工オットー・ハンペル(ブレンダン・グリーソン)、その妻でナチ女性同盟のメンバーでもあったアンナ(エマ・トンプソン)、そして姿の見えぬ二人の影を追うゲシュタポの警部(ダニエル・ブリュール)の3人が主役だ。
 オットーは一人息子ハンスが戦死したという知らせを受け、父親として怒りを覚えた彼は「あなたは私の息子を殺した、あなたの息子も殺されるだろう」とはがきに書き付けた。それを市内のあるビルの階段にそっと置いた。
 オットーとアンの葉書を置く行動は、次第に大胆になる。エッシャリヒ警部は置き去られた葉書の回収と犯人の捜査に懸命になるが、アレクサンダー通近くに住む人物だと見当をつけたものの、葉書は100枚、200枚と増え続ける。
 劇中、アパートに住んでいたユダヤ系の住人たちが次々に姿を消しというエピソード、ゲシュタボ警部が、親衛隊幹部に怠慢をとがめられ殴り倒されるシーンなどのエピソードも緊張を高める。
 ゲシュタポの残した記録から、実話をもとにドイツ人作家ハンス・ファラダの「ベルリンに一人死す」が原作。映画は独、仏、英3ヵ国の共同制作であり、台詞はすべて英語で語られる。原題はAlone in Berlin。この方が内容にふさわしい。日本語題名はあまりにも説明的過ぎる。
 ナチの圧政に対し、ベルリンの町中で繰り広げられた抵抗する庶民の姿に感動を覚えた。ラストシーンで285枚の葉書が、ベルリンの中心街を舞うシーンは圧巻だ。
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2017年08月11日

フランス、ドイツに見る「フェイクニュース」と真実、メディアの対策でフェイク封じ込め

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 写真、1. 仏リベラシオン記者、2. 難民についてのフェイクニュース、3. マクロン当選速報見守る記者たち
 トランプ大統領の誕生に一役買った「フェイクニュース」がフランス大統領選挙にも混乱を持ちこもうとしたが、対抗策が功を奏した。「フェイクニュースを阻止せよ〜真実をめぐる攻防」(BS1,6/24)がそのいきさつを描いた。
 リベラシオン紙は、大統領選に先立ちフェイクニュースに対抗する記者チームを立ち上げた。フェイク発信をリストアップし、ウソ、すりかえ情報に反論する記事を紙面や自社ネットに掲載した。ルモンド紙ではフェイクニュースのデータベースを作成、読者のニュース真偽判別の参考に供した。こうしてフランスでは右派マリーヌ・ルペン候補のフェイク策謀に反撃を加えることに成功した。
 選挙を9月に控えているドイツでも、緊張が走る。2年前メルケル首相が難民収容所を訪れた際、肩を並べて自撮り写真をとった難民の青年がいた。ところがその写真が最近のテロ事件と関連付けられ「首相がテロリスト激励」として、ネットに流され、青年は激しい非難にさらされた。
 ドイツ政府はフェイスブックなどのソーシャルネットに「違法投稿を削除するか、閲覧不可にする」ことを求め、怠れば罰金を科す新法が成立した(7/1)。選挙が迫れば、移民の排除など右派がフェイクニュースを持ち込む可能性がある。しかしドイツの新聞やテレビはヘイトスピーチなど対抗してきた長い歴史を基礎に、万全の対策をとっている。
 日本も無縁ではない状況がある。沖縄の基地反対闘争を誹謗するフェイクニュースがつい最近問題となった。一方、オスプレイ「墜落」を、「不時着」と政府が発表し、沖縄以外の多くの新聞、テレビがそのまま報じた。自衛隊の南スーダン派遣部隊が「戦闘があった」と報告したのに、防衛大臣が「衝突」だと言い張った。政府自身によるフェイクニュースだ。
 最近、民間のジャーナリスト、研究者などによる「ファクトチェックイニシアティブ(FIJ)」が発足した(6/21)。「ファクトチェック」の手法で、偽ニュースに対抗措置をとるメディアも目に付くようになった。読者、視聴者にとって、真実、事実を見分けていく新たな「フェイクニュースリテラシー」が必要だ。(すみいたかお、ジャーナリスト)
 赤旗コラム「波動」8月7日掲載
posted by media watcher at 22:22| Comment(0) | 隅井孝雄のメディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジュリー・ロンドン、July London, LPレコードをかけて放送する昔ながらのラジオ音楽番組ミュージックナウ 

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 (Face Book 8/1/17) MW
 LPレコードをかけて放送する昔ながらのラジオ音楽番組ミュージックナウ 
 FM79.7(京都ラジオカフェ)の音楽番組「ミュージックナウ」、前回からLPレコード盤を使用して1950年代、60年代のジャズを放送しています。CDと比べて音がまろやかです。
7月26日の放送、歌手は「魅惑のハスキーヴォイス」として知られる、ジュリー・ロンドン。1950年代、1960年代に、活躍。第二次大戦後の日本でも大いに人気を博しました。
 レコードはイギリスなど海外でのびています。ソニーは6月にレコード生産を発表したばかりです。すでに2月に録音スタジオをつくり、溝のカッティング機材を備え、その場で原版に加工できるようにするため、腕利きの音盤技術者を集めていました。そして89年に閉鎖した静岡工場を再開しました。
 レコードにジャズが吹き込まれたのはアメリカ。1917年最初の録音を担ったのは「オリジナルデキシーランドジャズバンド」でした。大型サウンド・ホーンをバンドの前に置いて音を集めました。のちにマイクが発明され、電気仕掛けで録音する時代はまもなくやってきますが、最初はすべてが手作業でした。2曲しか入っていませんでしたが、バンドがいないのに音楽が聞こえると、大人気になりました。
  ジュリー・ロンドン 1926年生まれ~2000年死去
 カリフォルニア州サンタローザ生まれ。両親がラジオ番組を持っていたため3歳のころから出演し、歌っていた。1944年ハリウッドにスカウトされ女優になったが、俳優のジャック・ウエッブと結婚して引退。1953年に今度は歌手としてデビュー、美貌と魅力ある声で名声を得た。
1. More 1961年のイタリー映画の主題歌、それに英語の歌詞を付けて歌うバラード
2. Fly me to the moon 1954年の曲1962年にボサノバ調で歌い大ヒット
3. Magic in the moon light 原曲は1929年のラテン。テ・キエロ・ディヒステ、1944年に英語版にしたものを歌う
4. Cry me a river 1953年の曲、ジュリーの代表曲の一つ
 以下Cry me a riverのURL
Julie London - Cry Me A River - YouTube
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